夜と霧に対する読み込みが凄い
アウシュビッツ三百万人の声
彼は強制収容所アウシュビッツの数少ない生き残りの一人です。この本『夜と霧』の題名は、一九四一年十二月六日のヒトラーの特別命令「夜と霧」にちなむもので、「夜陰」にまぎれてユダヤ人をはじめとする非ドイツ国民を捕縛、家族ぐるみ「霧」のように消し去るという虐殺を象徴してつけられたものです。
フランクルは、収容所に入れられる前に、フロイドやアドラーから精神分析学を学んでいました。同時に捕縛された妻と二人の子どもは、収容所でガスや飢えで殺されます。彼はそのことを解放後に知るのですが、女性や子ども・病人など弱い人々は直ちにガス室に送られたのです。
人間としての尊厳を奪われ、死が日常的である極限の状態の中で、彼は様々な体験(思索)をします。彼が述べているように生き残ったのは重なった偶然(幸運)なのですが、しかし、状況に絶望した人は決して生き残ることはできませんでした。
私が今『夜と霧』を三十年ぶりに再読しようと思ったのは、今の状況にあります。人生の意味がわからなくなっている現代の状況です。あの最も困難な収容所生活を生き(死に)抜いた人たちは、人生についてどう考えていたのでしょうか。
「非収容所番号119104」-これがフランクルの収容所における呼び名です。アウシュビッツに送られた人々は「人」ではなく「モノ」にされたのです。収容所における地獄のような生活を簡単に言い表すことはできませんが、過酷な労働、病、ナチスによる暴行、毒ガスによる虐殺・・・いつ処分されるか分からない恐怖と不安は人々の人間としての心を奪っていきました。
あるとき、一人の餓死しそうになった囚人が、ジャガイモを盗むために倉庫に侵入しました。当局はこれを知り、犯人を引き渡すように要求してきました。もし引き渡さなければ、囚人全員に一日の絶食を課すという条件をつけて。二五〇〇人の仲間は一人を絞首台に引き渡すよりは、むしろ一日の絶食を選びました。その日の夕方、掘っ立て小屋に横たわっていた囚人たちは、口を開く者もなく、いらいらしていました。そこに停電が起きました。みんなの不機嫌は最高点に達しました。
その時、囚人代表は小さな話を始めたのです。彼は、最近、病死あるいは自殺した多くの仲間のことを話し、この死ぬことの真の理由は自己放棄であると語りました。そして、この自己崩壊による次の犠牲を防ぐにはどうしたらいいかフランクルに尋ねたのです。
フランクルは何を語ったか
(一) 私たちは多くのものを失ったが、それでも失っていないものがある。少なくともまだ生きているものは、希望を持つ根拠を持っている。健康や家庭の幸福、家族、職業的能力、財産、地位…これらはかけがえのないものではない。再び作り上げることのできるものである。私を殺さないものは私を一層強くさせる。
(二) 私たちは、如何に生きのびる可能性が少ないか予測できる。生きのびるのはこの中の5%であろう。しかし、だからといって落胆し希望を捨てる必要はない。なぜなら、如何なる人間も未来を知らないし、次の瞬間に何が起きるのかを知らない。
(三) 同様に、過去は、現在の闇の中に差し込んでくる全ての光と喜びである。過去の生活の豊かな体験の中で実現化したものは、奪われることはない。為したこと、悩んだことも、永久に現在の中に組み入れられている。過去は最も確実な存在である。
(四) 人間の生命(いのち)は常に如何なる事情の下でも意味を持つ。この存在の無限の意味は、また苦悩と死をも含む。私たちの戦いの見込みのないことは、戦いの意味や尊厳を少しも傷つけるものではない。近づきつつある最後の時に、私たちを誰かが求めるまなざしで見ている。一人の友、一人の妻、一人の生者、一人の死者、一つの神が。彼は、私たちが「その苦悩にふさわしく」あったかどうか見ている。私たちが「哀れに苦しむ」のではなく「誇らしげに苦しみ死ぬ」ことを知っていることを期待している。
(五) 私たちの苦しみと死は意味を持っている。この苦しみや死から何の成果も得られない(打算がない)からこそ本物の犠牲だといえる。この我々の犠牲は意味を持っている。本当の信仰を持っている人はこのことを知っている。彼は収容所に入れられた時、天に、彼の苦悩と死が、その代わりに彼の愛する人間から苦痛にみちた死を取り去ってくれるようにと願った。この人にとっては苦脳と死は無意味なのではなくて・・・犠牲として・・・最も強い意味にみちていたのである。
やがて電灯がつきました。その時フランクルは、目に涙をためてよろめきながら彼に感謝の言葉を伝えるために近寄ってくる仲間のみすぼらしい姿を見たのです。
「私たちを取り巻くこのすべての苦しみや同僚の死には意味があるのか。もしも無意味だとしたら、収容所を生き延びることに意味などは無い。生き延びるかどうかに意味があるだけの生は、偶然の幸運に左右されるわけであり、そんな生はもともと生きるに値しない生なのだ。では、この苦しみの状況で私たちが生きる意味はなんなのだろうか。」
彼が問いかけたものは、私たちの心を打ち、深く考えさせられます。
人生の意味のコペルニクス的転回・・・主語を入れ替える
「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」
そう言って生きることをやめようとした人に、彼は語りかけます。他人によって取り替えられ得ないかけがえのないあなたを待っている仕事、待っている愛する人がいる。人生はあなたからあるものを期待していると。
フランクルたち囚人は、そのすざましい生活において、生きるための「なぜ」を常に問わなければなりませんでした。そして、生活目的を意識します。目的が無くなったととたん存在の意味も消えてしまいます。拠り所が無くなった人は死んでしまうのです。
そうして、生きのびるために、人生の意味をひっくり返したのです。
『人生から何をわれわれは期待できるか』が、問題なのではなくて、『人生が何をわれわれから期待しているか』が、問題なのである。
『私が人生の意味を問う』のではなくて、『私自身が人生から問われたもの』として体験される。人生は、私に毎日毎時問いを提出し、私はその問いに、詮索や口先だけでなくて、正しい行為によって応答しなければならない。
「われわれ」「私」と「人生」を入れ替えることで、まったく違う世界を出現させたのです。
十字架を背負うことの意味
先ほどの「天との契約を結んだ人」の話(五)は、イエスの磔刑を思い浮かばせます。イエスは人間として肉体を受け、その磔の苦しみと死によって人類の罪をあがなったということを。考えてみれば、イエスの死ほど意味のない死はありません。でも、パウロはこう語っています。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が生きているのは、私を愛し私のために御自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
フランクルは、イエスと同じように、人生は、運命を「彼の十字架」として担うことを私たちに求めていると語ります。
「何人も彼から苦悩を取り去ることはできない。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことはできない。苦悩に満ちた運命と共に、彼はこの世界でただ一人、ただ一回限り立っている。だから、苦悩を抑圧したり、安易な楽観でごまかしたりして、苦悩を和らげるのを拒否する。苦悩も一つの課題なのだ。苦悩もわれわれの業績であった。」
そして、彼は泣いて泣いて泣き抜くことによって飢餓浮腫を治した人のことを紹介しています。さらに、自分自身のことも。
「…耐えられなくなった時、私は一つのトリックを用いる。突然私は演壇に立っている。私は聴衆に対して、強制収容所の心理学について話をしている。すると、私を苦しめ抑圧する全てのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ描かれる。このトリックで私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、それがすでに過去のことであるかのように見ることができ、私自身を心理学の対象であるかのように見ることができた。」
彼は絶望的な状況の中で、未来を、希望を常に失わなかったのです(二)。そして、苦しい労働の中で、彼は愛する妻のことを思い浮かべ、その眼差しを思い浮かべるだけで自らを充たすことができたと述べています(三)。愛は人間の実存の最後のものであり、最高のものだと語っています。
私には、このフランクルの体験と思索は、きわめて特殊な極限状況にしか当てはまらないものとは思えません。この言葉「人間のいのちは常に意味を持つ。苦しみも死も意味を持っている。」は、どんな場合にも当てはまると思います。
キリスト教は「イエスの磔刑」に意味を与えました。これは、浄土教では「法蔵の出世(本願と成仏)」にあたります。そして、この本には、「生き抜いていくこと」と「死に抜いていくこと」が同じレベルとして述べられています。まさに、「生死出ずべき道」です。
二〇〇八、十一